花粉症

 スギの花粉に悩まされている。
 花粉症の原因は、スギの樹が増えたためだと一般にいわれているが、どうも私にはそうは思われない。
 子供のころは、スギの木ばかりに囲まれた神社の広場で友達と “スギ鉄砲遊び” なるものに興じていたものだった。スギ鉄砲とは小さな紙鉄砲のようなもので、タマは言わずと知れたスギの実である。花粉でいっぱいの実をスギの枝からもみ落とし、ポケットが膨らむくらいに詰め込む。あとは仲間と奇声を発しながらパチパチ撃ち合うわけだ。顔に当たるとピシッと痛い。
 花粉症の症状が出てきたのは20代の後半ごろで、ある日突然やってきた。当時住んでいた静岡市の安倍川のたもとで、酒の肴にするツクシを採っていたらクシャミが止まらなくなった。クシャミどころか眼が恐ろしく痒くなり、目が開けられなくなるという風の強い暖かい春の日であった。
 長い花粉症経験から私なりの対策はいろいろあるが、やはり一番は体質改善のようだ。食事は肉類をひかえ、野菜や魚中心とする。味付けは薄味、ギトギト油っぽい調理法は避け、穀類を多くとる。速効薬・特効薬はなんといっても 「 お酒 」 と 「 お風呂 」 である。どちらも血管を拡げるのが良いらしい。
 花粉症とのつき合いは30年以上にもなるが、北海道に移ってからは白樺の花粉症も加わった。クシャミをしながら眼をこすり、特効薬を飲みながら白樺の花を見上げる。花粉症も仲良くつき合えば、それなりにいいものなんだが ・・・

カテゴリー: 季節、四季, 植物、花、ハーブ  タグ: , , , , — tomi PM 2:00  コメント (0)

崩れ

 顔にタテの中心線をひき、その左右が対称となるのが美男美女の条件だそうである。
 女優の ‘松たか子’ さんが美人であるかどうかは別として、大変魅力的な女性ではある。表情にシニカルで挑発的な色気が混じり、なぜなのかと、その顔の形成に探りを入れてみると、おそらくそれは彼女の口元にあるらしい。向かって左側の口元がわずかに歪むあの独特な筋肉の動きは、相手をこころなしか見下し、皮肉るような小悪魔的な表情をつくる。
 均整のとれた顔かたちのなかの一点のアンバランスは大変魅力的な要素となり、それはアンバランスというよりも “崩れ” といったほうがいい。美しくはないが、“崩れ” は見る人の心を魅了する。
 彼女は最近結婚されたようで、でもあの口元で毎日微笑まれたら、相手の男は萎えてしまうにちがいない。萎えて背骨を抜かれ、男のエネルギーはあの口元から飲み込まれてしまいそうな気もする、よけいなことだが。
 男を決して前向きに生きさせようとはしない口元である。

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何もしないこと

 若いある日、自らの選択によって父親になった。他に選択肢はあったはずだが、なぜかより困難な道をえらんだ。
 人の親になりたかったからでもないし、家庭を築きたかったからでももちろんない。生きて来ようとするものの尊厳に対する畏れのようなものがあったように記憶している。その尊厳の前には、これから目指そうとする自らの夢などは、ちっぽけなものに思われた。
 生 ( いのち ) の脈動はその後も続き、最後の生の躍動は今年17歳になる。あと3年で親としての私の役目も終わる。
 親の役目とは何なのか。私にとってそれは “何もしないこと” であった。父親としての役目は、ただ生きる糧を得る努力をすることだけであって、それ以上は無用だと考えた。子供は自ら学び、会得する力を持つ。未熟な親が選ぶ言葉の助言など有害だとも考える。人生を歩むための適切な言葉は、昔からたくさんの先人が残してくれてある。ただひとつだけ親の私が子供に残せるものは、その生き様でしかない。つまらぬ生き様ではあるし滑稽な生き様でもあるが、それはそれで身近な生き様として強い説得力をもつはずだ。私はそれを亡き父から学んだし、父の生きる後姿から学んだ。

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ノドモトスギレバ、ミナオナジ

 ふたたび 「 平野レミ 」 さんのことです。
 彼女の料理の手際よさには目を見張るものがある。手際よさというよりも、どちらかというと手抜きに近い。その手抜きも、彼女独自の論理に裏打ちされている。
 ある日、ご主人の友人が何人かみえた。ギョーザが食べたいというから、彼女が手際よく作ることになった。詳しい手順は忘れたが、およそ次のようなものだったそうだ。
 まず、細かく刻んだニラとひき肉を炒め、大皿に盛る。お湯の煮立ったナベにギョーザの皮を一枚一枚放り投げ、火が通ったら先ほどの大皿の上に並べる。
 食べ方は、ギョーザの皮にスプーンかなんかで具をのせ、手でつつみ込んで食べる。面倒ならそのまま別々に口の中に放り込んでもいい。彼女いわく 「 ノド元すぎれば、みな同じ! 」。なるほど、なるほど、これなら料理のレシピなんか無用なわけで、味が薄ければ、あとから口の中に塩コショーでも放り込めばいいわけだ。なかなか理にかなっている。
 味覚などというものは、その場だけの官能をくすぐる程度のものであり、深く精神の奥に昇華していくような高級な器官ではない。だから料理なんて、なにもそれほど大げさに考えることなんかないのよ。ノドモトスギレバ、ミナオナジ。楽しいわョ、お料理って!

ホーケイ、ホーケイ

 NHKの朝のテレビ・ドラマ 『 ちりとてちん 』 に福井県・小浜地方の方言が出てくる。
 そのひとつに、話し相手に 「 ほう、なるほど、そうですか 」 と相づちを打つとき 「 ホーケイ 」 という。この言葉は私の郷里・山梨県南部でも使う。
 ある関西からの話し好きな旅人が富士五湖にやってきた。地元の人とうちとけて語らっているうちに、相手がさかんに 「 ホーケイ、ホーケイ 」 と合いの手をいれる。旅人は何のことやら分からず、そのうち話題も萎縮して、なにやら侮辱されたような気分にもなり、「 アンサン、ケンカ売ットルンカ! 」 となった。
 大変な誤解をうける方言でもある。

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不気味な含み笑い

 過日、料理愛好家でシャンソン歌手でもある 「 平野レミ 」 さんの講演会に足を運んだ。1時間以上の “おしゃべり” は、まるでマシンガンの連発のごとくに言葉が飛び散り飛び跳ね聴きとれず、まるで英語のヒアリングテストでも受けているがごとく聞き耳をたてて集中していないと意味不明となって、その会場に一人取り残されてしまう。
 若いころ、レミさんのお父さんである平野威馬雄さんからお手紙を頂いたことがある。フランス文学者の娘さんであるから、さぞや “それ系” であろうと思い込んでいたが、テレビの料理番組で初めてお目にかかり、見事に思い込みを外された。
 イラストレイターの和田誠さんとの間に2人の息子さんがおられるそうで、やはり、あの速射砲のごとき言葉の洪水は家庭内にも当然氾濫しているであろうかと、講演の途中から耳をそばだてて聴くのをあきらめ、不謹慎にも何やらアラヌことを考えはじめてしまった。
 何が不謹慎であったかというと、つまり、レミさん御夫婦の閨の睦言のことを軽はずみにも空想してしまったことだ。二人のお子さんを産んだのだし、ご主人との夜の生活はさぞやにぎやかであったろうとは想像できる。でもどうだろう。子作りのその時間・空間、その瞬間までも、はたして彼女はしゃべり続けたであろうかということだ ( どうでもいい、不謹慎なことではあるが )。
 そのどうでもよいことを更に続けると、つまり、その、二人の愛の行為が始まるや、さすがのレミさんも言葉を失うであろうと思われるのだ。言葉を失い、下から御主人の行為を黙ってじっと見上げていると思われ、もしかしたら含み笑いなんかして、「 男って、変なことを一生懸命やるんだなぁ 」 って思ったかもしれない。
 そんな情景を妄想していたら、なんだかとても怖くなって、壇上で明るく身振り手振りでしゃべっている彼女が、一転不気味な存在に思われ、しゃべればしゃべる程そのおしゃべりが止まった時の空恐ろしさに身震いした。
 無口な人が突然しゃべり出すのは明るくてまだいいが、おしゃべりな人が突然口を閉じ、ニヤリと含み笑いをされたら、存在の奥まで見透かされたようで縮み上がる。男の一物だって縮み上がるにちがいない。
 レミさんの御主人はよく耐えたものだし、二人の息子さんは、存在の奥から健気にもよく生を得たものである。もちろんどうでもよいことだけれど ・・・

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無用の角(つの)

 エゾシカの雌には角が無いのに、雄には立派な角が生えるのはどうしてなのかと長年疑問に思っていたら、ある科学雑誌に以下のような記事が載っていた。

 ―― 多くの動物では、シカの角やクジャクの羽根、シオマネキの鋏のように、雄だけが極端に奇妙な形態に進化しているケースが多い。こうした形態は、生存にとって有利であるとは考えにくく、ダーウィンは、理由はどうあれ雌が好んだからだ、という 「 性淘汰 」 仮説で説明を試みた。
 派手なディスプレイをする雄と地味な雄がいたとしよう。前者は派手さゆえに外敵にも見つかりやすいが雌にモテ、わずかでも子孫を残すことができるのに対し、後者は敵に襲われない代わりに雌にも顧みられず、長生きできても子供を残せない。こうして、とにかく雌が好みさえすれば、生存にとって不都合な形質でも進化してしまうことになる。生物学では、こうした奇妙志向のエスカレートを 「 ランナウェイ 」 と呼んでいる。
 なぜ、必ずしも優秀でない雄がたくさん生き残ってきたのか、という答えのひとつがここにある。事実、鳥では雌を引き付ける魅力のある雄のほうが、子供の世話をさぼる傾向がある。ダメな父親とセックスした雌は、育てられる子供の数ではとりあえず損をするが、息子が父親の形質を受け継いでセクシーになるので、息子を通じてより多くの孫を持つことになり、子孫繁栄を達成できることになる ――
 『imago』1993・12月号「司どるものと恋するもの」(赤池学)より

 派手なディスプレイは人間社会でも同じようだ。髪を染め、きらびやかな服装で街中を闊歩している若者たちは、まさしく現代の雄の典型であろうが、それを雌が好むのであれば、これもまた自然の摂理であろうか。その子供に優秀な子孫が現れる可能性が少なくとも、それはそれで仕方のないことだし、優秀な種ばかりがもてはやされる社会も怖いような気もする。
 林の中を駆けまわるエゾシカの雄にとって、角は邪魔もの以外の何物でもない。その角の美しさに思わずうっとりするのは、なにも雌のエゾシカばかりではない。人間のこの私だって、ついほれぼれして見てしまう。
 壊れやすいもの、無用なものほど美しいというのも、これまた真理の表裏であろうか。

カテゴリー: 動物  タグ: , , , — tomi PM 12:00  コメント (0)