遠景

 美瑛を離れてほぼ2ヶ月、ここ内地での生活にも次第に慣れて、それとともに、意味も無くただ遠くを眺めるという時間が少なくなった。
 日々の生活の中で、空や雲、遠くの山々を眺めるという行為は、ごく限られた人や特別な職種の人々の行いであって、多くは目の前の雑事に眼を配り続けなければ都会生活は成り立たない。遠近の 「 遠 」 は交差点の信号機ぐらいの距離であり、それ以上の 「 遠 」 は何か特別な意識の強要が必要となりそうだ。
 信号機といえば、以前 ( といっても20年ほど前 )、美瑛町には道路の信号機は全町で ( 東京23区と同じくらいの面積でありながら ) 5ヶ所ぐらいであった。ところが近年、観光の人気スポットになったせいで、観光バスやレンタカー、マイカーの乗り入れが多くなり、信号機の設置が急増している。
 ところでこの信号機、ある日突然出現するから困る。地元の人々にとって、日常素通りする交差点に突然の信号機は大いに困る。困るだけではなく、怖い! いつもの交差点を車で通り過ぎたあと、「 あれぇ! こんな所に信号機できたの! たしか今、“ 赤 ” だったような ・・・」
 美瑛に信号機は不要だとは言わないが、似合わない。そこかしこに信号機の現れる美瑛は、もう 「 丘のまち美瑛 」 ではない。
 美瑛の道路に車を走らせると、信号機は余りに近すぎてわずらわしい。近景すぎるのだ。都会では遠景に見える信号機が。

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託す

 友人や知人、近親者の訃報に接することがたび重なる今日このごろ。老いを否応なく納得させられる前に、死の影がおぼろ気ながらも付きまとうようになった。
 若いころ読んだ本に再び目を通すと、鉛筆で所々に傍線が引かれている。読み返してみて、なるほどと納得し、今の自分とそれほど変わらない感性に驚きもし、また失望もする。若い頃に断たれても、今これから途絶えたとしてもそれほど変わらない人生であったかと思うと、無駄な時間の浪費、無駄な時間の積み重ねであったかも知れない。
 20年ほど前に美瑛に移住し、結果として良かったと思われることの一つは、己が人生を逆算できるようになったことかも知れない。これから10年、20年後の自分を予想するのではなく、10年後、20年後の自分から現在の自分を遠望するという視点を得たことだ。時間の流れがゆったり進み、心臓の鼓動のテンポが自然の営みに近づいたような不思議な錯覚に陥ると、なにやら鳥瞰的に自分を見つめられるような気になる。人はいつどのように生を断ち切られるか分からない。そのためには今の己が姿を客観的に、冷めた視線にさらす必要があるような気もする。
 山荘の敷地は広い。毎年何本かの木々の植樹を計画している。生き長らえて成長の証がそれでも欲しいのなら、木々に託すしかすべがない。
 生きて生の最後までに何本の樹木を植えることが出来るか分からないが、その日まで、ただ黙々と植え続けようかと考えている。CO2 削減という名目でもいいし、還暦の記念植樹という口実でもいいし・・・

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触覚あれこれ

 山荘のまわりにはナラやカシワ、クリ、クルミといった落葉樹が数多く生えていて、そのゴツゴツとした幹の肌ざわりがとても好きだ。家具や食器なども、ツルツルしたものよりゴツゴツ、ザラザラした手ざわりのものがいい。でも女性の肌は、やはりツルツルしっとりしていたほうがいいにきまっている。余計な話だけれど。

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 「 インド人は手でも食べる 」。子供のころ、物知りな兄がそう教えてくれたものだ。味覚や嗅覚ばかりでなく、手づから食べることにより触覚でも味わうという意味らしい。そういうものかと感心し、手づかみで食べてみたら母親に行儀が悪いと叱られた。
 それまで食物は手づかみで食べていた我々の祖先が、火を使って煮炊きするようになると、やけどの心配からハシやシャモジが作られ、そのあたりから五感のうちの触覚がおざなりになったのかも知れない。ハシを使って握り寿司を食べている姿を見かけるが、握って作ってくれた寿司は、やはり指先でつまんで食べたほうが美味しいにきまっている。

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 電気関係の分野に “接触抵抗” という言葉がある。電気が流れるとき、金属と金属がしっかりつながっていれば問題はないのだが、軽く、ほんの少し、触れるか触れないか位に接触していると、その部分に大きな電流が流れるため、発熱したりスパークしたりして、火災の原因にもなる。
 この触れるか触れないか位の接触が、電気の分野はもちろん、人間の場合も微妙となる。肌と肌がしっかり触れていれば問題はないが ( たとえば握手のように )、軽く、ほんのちょっと指と指とが触れ合ったりすると、全身に甘美な刺激が走り、発熱し、スパークする。もちろん若い男女のあいだでのこと。

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 『 奇跡の人 』 というずいぶん古い映画がある。三重苦のヘレン・ケラーの子供の頃の話で、手押しの井戸ポンプからヘレンに水を浴びせ、「 Water! 」 と指で教えるサリヴァン女史の姿は感動的であった。
 ロミオとジュリエットが最初に出会うシーンは仮面舞踏会。二人が初めて言葉を交わす場面はソネットという韻を踏む詩の形式で飾られ、互いの手の平を合わせながら、「 聖者にも唇がございます 」とか、歯の浮くようなロミオの言葉から接吻へと進む。性急ではあるけど、初々しくていい。

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 痴漢願望というのが男にはある。いや、少なくとも私にはある。聖書に 「 女を見つづけて、これに情欲を抱く者はみな、すでに心の中でその女と姦淫を犯したのです 」 とあるが、見るだけでなく更には触れてみたいという欲望が私には起きる。美術館に展示されている彫刻を、直接手で触れてみたいという願望は常につきまとう。触れることで、視覚を超えてその物 ( 人 ) の全存在が確かめられるかのような錯覚が起きる。 

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