

あなたからのメールは、雑に生きてきた私にはとても重く響きます。長く生きていけば、人は未来に焦りを覚えることもあるでしょうし、人生に真摯 ( しんし ) に立ち向かえば向かうほど余計に満たされぬ思いも増すことでしょう。私などこの歳になってもまだ、もう一度十代からやり直したいと思うことがよくあります。
恋愛に対し、女性は受動的であるといわれます。それは、そのほうが精神的に安易であり、身を守るためであり、さらには動物の雌が備えている繁殖に対する大いなる知恵なのかも知れません。でも恋愛における受身の心地よさは、とかく人の生きてゆく姿勢にも伝染しやすいものです。
某方へ。遠く離れた仕事現場からの近況報告ですので、あなたからのメールに直接応えることは出来ませんが、でもいつも気になってはいます。助言らしき適切な言葉が見つからず、我ながら歯がゆく思っています。私には荷の重い内容ですし、特に女性のあなたには当を得ない言葉ばかりの羅列となってしまいましたでしょう。
最近読んだ、作家・井上靖さんの 『 猟銃 』 という小説に 「 遺書 」 という形で、ある女性の以下のような告白が載っております。長いですが書き写しますので読んでみて下さい。
「 愛する、愛される、なんて悲しい人間の所業でしょう。女学校の二年か三年のころのことでした。英文法の試験の時、動詞の能動態と受動態の問題が出たことがあります。打つ、打たれる、見る、見られる、そうしたたくさんの単語の中に混じって、愛する、愛されるという二様の眩い言葉が並んでおりました。皆が鉛筆をなめなめ問題とにらめっこしている最中、だれの悪戯 ( いたずら ) だったでしょうか、背後から一枚の紙片がそっと廻って参りました。見るとそれには、貴嬢は愛することを希 ( のぞ ) むや、愛されることを希むや、と二様の文句が二様に認められてありました。そして愛されることを希むという文字の下には、インキや青や赤思い思いの鉛筆で、たくさんのまる印しがつけられてあり、一方の愛することを希むという欄には、ただ一つの共鳴者のサインも付けられていないのでした。私の場合もまた決して例外ではなく、愛されることを希むという文字の下に、一個の小さい丸を付加したものでした。愛することも、愛されることも、それがいかなることを意味するのか詳しくは知らない十六七の少女のころでさえ、すでに愛されるということの幸福を本能的に嗅ぎ分けているものでしょうか。
しかしその試験の時、ただ一人私の隣席の少女だけは、私からその紙片を受取ると、それにちらりと視線を移していましたが、ほとんどなんの躊躇 ( ちゅうちょ ) もせず、ただ一人のサインも持たない空白の欄に太い鉛筆でくるりと一個の大きい丸を書き記しました。私は愛することを希むと。その時、私はなぜか、その少女の妥協しない態度に小憎らしさを覚えたと同時に、さっと隙 ( すき ) をつかれたような戸惑いを感じたのを、いつまでもはっきり覚えています。
( 中略 )
女が人生の終りで、静かに横たわって死の壁のほうに顔を向ける時、愛された幸福を満喫した女と、幸少なかったが、私は愛したと言い切れる女と、はたして神はどちらに静かな休息を与えられることでしょうか。しかしいったいこの世に、神の前で私は愛しましたと言い切れる女があるものでございましょうか。いいえ、やはりあるに違いありません。あの少女は、あるいはそうした選ばれた数少ない女の一人に成人したかもしれないのです。髪を振り乱し、全身傷だらけになり、裂け破れた衣服をまとい、そしてその女は昂然 ( こうぜん ) と顔を上げて、私は愛しましたと言うでしょう。
ああ、いやです。逃げたいのです。でも払っても払っても追いかけて来るその少女の面差しを、いま私はどうすることもできません。数時間後の死を前にして、この堪えらない不安な思いはなんでしょうか。愛する苦しさに堪えかね、愛される倖せを求めた女の、当然受けなければならぬ酬 ( むく ) いが、いま私の上に降りかかっているようでございます 」
( 井上靖 『 猟銃 』 より )